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2008年10月27日

2008/10/27

橋下式教育論...

「大阪の教育を考える府民討論会」の記事だが、「体罰をしょうがない」とした朝日の見出しと「渦巻く怒号、やじ」とした産経の見出し、知事の距離を如実に表していると思ったのだが、これに先立ち、府内の高校生との討論があった。この件については得に記事が見当たらないので以下に紹介する。
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1186237.html

思ったのは、討論の場で知事は、為政者としてではなく、弁護士として発言しているようだ、という事。
いかに自分が正しいかを法に基づいて主張しているに過ぎないと思った。
行政の長なら、もう少し言い方があるだろうにと思う。

それにしても上のサイトの書き込みは荒れ放題。自己責任論が好きな人はずいぶん多いらしい。
でも、家庭環境とか、持って生まれた身体とか、自分で選べないものについて自己責任を言われてもどうしようもないのも事実だ。

そもそも私学助成は、学校の設置を私立に肩代わりしてもらっているから行っているという面があり、これを減らすなら公立の授業料も上げるのが筋だともいえる。

奨学金は受けようと思ってもなかなか難しいというのが実感。かなり所得制限が厳しい。一方で、返還義務のある奨学金のかなりの額が返されないままになっているようで、社会に出て働いている人からの返還を求め、できるだけ多くの人に給付できるよう運営していくべきだろう。

生活保護の受給はかなり厳しく、親族の支援も受けられないとか、健康上の問題で働けないとか、貯金も使い果たしたとか、ぎりぎりの困窮を極めないと受けられないようになっている。そのため、地域によっては保護を受けられないまま餓死するといった事態も起きている。そんなぎりぎりのところまで落ち込みたくないと思って申請を諦める、あるいは諦めさせているのというのが現実だ。

重要なのは、これは単なる金銭的な問題ではなく、精神的な部分もあるということだ。
今の制度は絶望の縁に辛うじて用意された貧弱な梯子のようなもので、転ばぬ先の杖といったものではない。そこまで行かなければ辿り着かない、あるいは辿り着けないかもしれない危ういものなのだ。中流家庭が極貧にまでならなければ助けてもらえないという厳しさ、それが絶望感とつながっている。
人によってはそれを甘いということもあるのかもしれないが、厚い中流層というのが日本社会の安全を担ってきたわけで、それを維持する事は重要だ。困窮を極めるところまで行かなくても、苦しい時に手を差し伸べて助ける制度こそが中流層の厚みを維持するのに役立つはずだからだ。
その層が自分の力ではどうしようもないことで苦境に立たされた時にどうやって助けるか知恵を絞るのが行政の仕事なわけで、それを「自己責任だから助けません」というのは、知事は問題の捉え方が薄っぺらく、浅いと思う。

現実には生活保護を受けている人が分不相応な暮らしをしていたりするといったおかしな例もあり、そこでは自ら働き、その金で生活するというモラルが完全に崩壊している。
中流というのは働いて稼ぐというプライドを持っている人達の事であり、ぎりぎりの貧乏になって生活保護を受けるというのは、そのプライドを奪う、失うということでもある。人間のプライドを維持することは社会のモラルを維持する事でもあり、とても重要なことだ。

所得によって社会が階層化され、分断されるのは、社会資本の維持にとっても長期的に見て高くつくことになるだろう。我々はそういったところにまで思いを致し、弱肉強食ではなく、平均水準の維持、底上げといったことに目を向けて行くべきだ。少なくとも今回の金融危機によって競争・市場万能主義は終わったわけで、我々も頭を切り替えなくてはならない時期に来ている。

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