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2005年4月29日

2005/04/29

土木という世界 3

 土木の仕事は縁の下の力持ちといった役回りである。われわれの普段の生活を支えている根本であるにも関わらず、対象が巨大であり、個人の範囲でどうこうできるものではないだけに、部外者にとっては縁遠い。そしてそのことと、技術主導的であること、利権とつながりやすいという点が最大の問題である。

 まずこの業界、内と外では、かなりのカルチャーギャップがあるのではないかと思う。
この世界を担うのは、基本的に土木技術系の職員がほとんどである。計画、設計、工事の監理、技術基準の作成など、技術を武器に自然を相手にしている仕事であるから、必然的にそういうしくみになってきたわけだ。しかし国土の整備が一通り整った今、それが落とし穴になっている。

 発注側の役所も工事する業者も、設計の部分を除くと、この世界は体を使ってナンボという部分がある。
河川や港などの現場を技術的な視点で見るという業務が多いからである。そのせいかここには酒飲みが多く、喫煙者も多いなど、体育会系的なノリがあって、人間関係を重視する昔ふうの仕事の仕方が色濃く残っている。

 彼らが仕事をする上で考える事は、基本的に技術的な部分と、カネの部分だけである。技術については、技術者としてのプライドを重視し、関連業界も公共事業という安定した仕事を確保するために技術開発には熱心である。業界団体は数多く、活動も活発だ。なんといっても公共工事に使われる金は我々の目に触れやすい一般会計ではなく、それよりも規模の大きい特別会計から支出されるものもあり、その額は莫大なのだ。

 そして各事業(=工事)は完了すると、会計検査院によって設計内容や施工内容においてムダがないかチェックされる。基本的に工事の目的であるとか、そういったことをチェックするわけではないから、工事をすることさえ決まっていれば、あとはその中身をきっちりしておけば誰からも文句を言われる事はない。会計検査が終わればすべてが終わり。そんな繰り返しが土木系の組織の日常なのである。だからこの部門だけは技術系がトップに座り、政策の意思決定を行うポストを与えられているわけだ。

 しかしどうだろう、トップに座るような人物はそれなりとしても、それ以外では、技術と金の計算しかできないような職員ばかりで占められるということでもある。トップの人物だって、技術屋としての自負を持つならば基本的には物事を技術的な見地から見る事になるだろう。

 私は、土建国家と言われる日本の体質の根源はここにあると思っている。技術屋としての自負が悪いと言っているわけではない。一つの立場からしか物事を見られないということ、そういう人間の集まっている組織が問題だと思うのである。技術は重要だが、それで物事すべて解決できるわけではない。肝心な人の心という部分がそこにはすっぽりと抜け落ちているし、維持にはコストがかかるものだからである。行政が限られた予算の中でサービスを提供しなければならないとき、技術屋としてしかアイデアを出せないのは敗北である。

 阪神大震災後、仮設住宅やその後の恒久住宅で多くの高齢者が孤独死した。モノをつくるという発想では、彼らを救うことはできなかった。その後山古志村では教訓が活かされているが、それは技術によってではない、人間の心に向き合うことによってなされたのである。

 似たような部署にしか行かず、人間関係を重視する組織にいれば、当然知り合いばかりの身内意識に染まって異質な意見は言いにくくなり、組織の活力は停滞する。もしくは技術者というプライドだけが突出して、他に使い道のない単なる技術屋集団になってしまう恐れがある。
一度始まったら止められないと言われる公共工事を生む背景には、そんな事情があるのだ。
事務系も技術系に対しては、専門的な話は分からないし、簡単にモノ申せないという空気が生まれる。
職種による単純な区別がこのような弊害を生んでいるのだ。そのことにどれだけの人間が気づいているのだろう・・・

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