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2005年4月21日

2005/04/21

職種という分類

 昨日、偶然毎日新聞のサイトで「理系白書」というのを知った。バックナンバーをざっと読んだのだが、なかなか面白かった。しかし残念ながら、私が感じ、経験してきた事についてはほとんどここでは触れられていなかった。それは、この記事で多く書かれている主立った大学や企業、院卒生ら以外のことである。
記事にする以上、そういう部分から取材をするのは当然だが、実際には、本人も雇う側もそれほど意識が高くなく、それでいて層として厚い部分、つまり私の知る役所などの方が、影響が大きいと思う。今の国・地方の抱える問題が、この「文理の壁」に起因しているといっても差し支えないのではないか。
行政機関は上意下達なので、上がやれと言えば下はそれに従う。一方、地方にやる気があれば構わず自由にできる部分もあるが、そこまで問題意識を持っている自治体は稀だ。この問題については今後取り上げ、世に問うて欲しいと思う。

 そもそも、私が中央官庁で仕事をしたいと思って活動していた頃、一番驚いたのはその人事システムだった。公共のためになる仕事がしたい、という純真な思いだけで多くの省庁を訪問する中で聞いたのだが、その時初めて知り、理解に苦しんだ。最終面接に行かなかったのも、結局はそのことに馴染めなかったからだ。以後、地方自治体で働くようになっても、人事のやり方については常に違和感を感じてきた。

 霞ヶ関で聞いた話では、公務員試験の成績で、将来がすべて決まっているという。数ある試験区分のなかで、法律・経済などの分野でトップだった者が将来大蔵省や通産省のトップになり、土木でトップだったものが建設省のトップになるのだそうだ。だからトップになれない人は、さっさと辞めて天下り先に再就職することが、採用の前から決まっているということだ。
一体、こんな制度のどこに合理性があるのだろう? 人をバカにしてないか?
身をもって体験したが、力のある省庁ほど、扱いは露骨に差別的だった。買い手市場だから当然かもしれないが、権力から遠い省庁は、むしろ雰囲気の良さをアピールしていた。10年前の話なので、多少変わっているかもしれないが、基本的には今も同じだろう。

 入省した職員は、たとえ最初は疑問を持ったにせよ、年月が経つにつれそれを受け入れ、やがて当然の事として受け入れていくのだろう。疑問を持ち、我慢できない者は去り、そしていつまでもその制度が温存されていく。
私が一番問題に思うのは、国の根幹を定める彼らが、そんな非人間的な組織にいて、人の能力を伸ばし、正当に評価する社会を作り上げていく事ができるわけがないということだ。
ニートと呼ばれる人々が増え、フリーターが増え、自殺者が増え、出生率が下がり、未来に希望を持てない人で溢れる今の日本は、そんな官僚の世界の投影ではないか。彼らが「やればできる」なんて心から思えない以上、そんな社会をつくれる訳がない。
高度成長期には機能したかもしれないが、豊かさを手に入れた今となっては、もうこのやり方は人間を疎外するだけになってしまっている。しかし、これを変えていく力も今は無いようだ。

 うちの自治体でも、自ら申告すれば希望の部署に就けるという制度がある。しかしその運用実態は全く不明である。たとえ実績があっても、そこには職種という大きな壁があることを知らされるに違いない。
公務員試験は、様々な分野に分かれた区分ごとに行われる。受験者はその中から選んで受け、その区分の職種として採用され、行き先はほとんど固定している。もちろん、専門的な仕事はそれなりの知識が必要であるし、専門家がやるのが良いのだが、行政というところはメーカーではないので、専門もほどほどで良いというのがほとんどだ。むしろ、それ以外の様々な能力がなくては勤まらないというのが正直なところ。

 しかし役所とは、職員にそんな職種というレッテルを貼っては仕事をタテワリにし、それぞれのポストを守ることを優先させてしまう。民間企業における「利益」というシンプルな指標がないからだ。その結果、理系・文系という分類に起因する、人間を分類するという考え方が、こんな深くにまで根を下ろしてしまっているのだ。そのことが人の能力を引き出したり、適材適所といった、組織にとって当然のやり方を奪い、働く側の意欲や挑戦心、広い視野に基づくバランス感覚・交渉能力といった大事なものを行政機関から奪っているのである。

 ぜひとも認識し、考えてもらいたい問題である。

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